2013.02.09

保守主義と社会民主主義

 先日、私は保守主義に魅力を感じていると書いた。読者の中には、少し前に社会民主主義者だと言っていたじゃないか、ころころ変わるんだなと感じた人がいるかもしれない。が、私の中では全く矛盾していない。保守主義的社民主義、社民主義的保守主義、どちらでもよいが、それが今の私の立脚点と言って良い。
 雇用政策、社会保障政策、セーフティネット、所得再分配システムを構築して、貧困、格差を是正し、社会的包摂を進める。また、市場競争においては労働、土地の商品化を抑制して、長期的にグローバリズムからの離脱を目指したい。この辺りまではそう抵抗なく賛同して下さる方が少なくないと思う。「社民主義」に相当する理念と言って良いだろう。

 では、「保守主義」とは何か? もっとも大きな理念は、西欧近代主義を疑い、日本の歴史、伝統を見直すべきだということだ。西欧近代と言いつつ、我々はアメリカ型近代主義を戦後の社会モデルとしてきた。実は、ヨーロッパの近代主義とアメリカのそれはかなり異なっている。ヨーロッパの国々は、近代主義の「普遍性」(自由、平等、博愛)を共通の了解事項としつつ、国や地方固有の伝統的価値観、作法、習慣を頑迷に保存している。それに対してアメリカは、「自由」こそが普遍的な正義であり、近代的な自由を脅かすものは世界の秩序に反するという理念で、圧倒的な国力で世界に君臨してきたといえよう。

 私たちは、アメリカに占領され、アメリカに政治的、軍事的、経済的、文化的に依存して高度経済成長を果たした。その間に日本の伝統、作法、習慣は、自ら好んで捨て去り、個人主義が是とされてきた。そして、バブルがはじけ、失われた20年を経験し、人口減少、超高齢化、マイナス成長社会を前にして、ようやく、ズタズタになったコミュニティの復活、人と人のたすけあいの再構築が必要とされてきたのだ。 だとしたら、この国の戦後民主主義とは何だったのかを、丁寧に振り返ってみることからはじめなければならない。

 例えば、私は佐伯啓思の近著を読むまで、ポツダム宣言の以下のくだりを知らなかった。「 吾らは日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し…」無条件降伏というのは、国体を含む無条件ではなく、武装解除に関する無条件降伏だった。ところがミズーリ号上での降伏文書の調印で様相が異なってくる。無条件降伏に関する記述はポツダム宣言と同様に軍隊の無条件降伏を求めているだけなのだが、文書の最後に次の1文が盛り込まれた。「天皇および日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施するため適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」そして、この「制限」は英語では 「subject? to 」 となっており、それは「制限」というよりは「従属」という意味に近いというのだ。つまり、この1文はポツダム宣言の趣旨を逸脱しており、これが根拠になって、サンフランシスコ講和条約が締結されるまで、日本の主権は連合国総司令官のもとにあったということになる。では、日本国政府、国会に主権が存在しない中で制定された日本国憲法は主権を有効だと言えるのか。主権を回復した時点で作り直さねばならなかったのではないのか。 

 こうした問題に対して、戦後民主主義、護憲派そして左翼は真摯に向き合ってきたと言えるのだろうか。「筋」が通らないことに目をつむってこなかったか。「筋」から始めなければ、この国は、決してまっとうにならないのではないか。私が、「保守主義」にこだわる大きな理由のひとつは、「筋」を通さねばいけないと思うからだ。そして、日本固有の価値観、伝統を重んじ、西欧近代を相対化することが必要だと思うからだ。