2016.03.30

花入れ、お休みしました。

先週末に平塚に住んでいた義母が亡くなり、昨日が前夜式(敬虔なクリスチャンでした)、今日が告別式でした。その関係で花入れをお休みしました。
義母は、91歳、17年前に夫を亡くしてからは一人住まいでした。その義母の前夜式に90人近い参列者があったことに、私は大きなショックを受けました。葬儀は親族のみでと考え、ほとんど告知をしなかったのにです。この数年、私は、参列者数人という葬儀を何度か経験しました。もちろん、義母の場合は子どもが4人いて、その関係等で親族だけで30人程度がそろいましたので、それだけでも充分ににぎやかであったと思います。しかし、そのほかに50人近い人が参列したのです。高齢、夫ははるか昔に他界の「おひとり様」の死にどうして?

理由は簡単です。彼女は、1947年に受洗してから亡くなるほんの少し前まで、キリスト教徒として熱心に教会活動を行ってきました。参列したのは、その同志、友人の人たちだったのです。参列者の多さは、彼女が亡くなる寸前まで多くの方々と共に豊かな人生を過ごし、決してさびしくはなかっただろうことを物語っています。

私は、「中間共同体」の大切さを図らずも実感することになりました。前夜式の前の晩、私はちょうど「愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか」(中島岳志 島薗進 著)の次の1節を読んでいました。

「トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』で、民主主義にとって一番重要なのは国家と個人の間のアソシエーション、つまり中間共同体だと強調しました。労働組合や社会団体、宗教団体といったアソシエーションへの参加を通じて、自分とは違う他者の考え方を尊重し、合意形成していくパブリック・マインド(公について考える気持ち)が醸成されていくのだと。」(中島岳志)

それに対して島薗進氏は東日本大震災でお寺が果たした役割をもとに「お寺のリノベーション」を提唱しています。確かに、かつてお寺は地域の縁側的な機能を持っていて、誰もが気軽に行き来する場所でした。お寺がそんな機能を取り戻したら、地域はずっとにぎやかで豊かになるでしょう。キリスト教、イスラム教、仏教、神道、この国には多くの宗教が息づいています。それらが、地域で孤立しがちな人を優しく包み込む役割を果たしてくれればと願います。