2014.05.11

2冊の本と昨日の花

最近読んだ2冊の本、「街場の憂国会議」(晶文社 内田樹編)と「保守とはなんだろうか」(NHK出版新書 中野剛志)から。
まず、中野剛志。

「そもそも、「憲法(consutitution)とは、国体(consutitution)」を意味する。国体の護持を旨とするのは、本来であれば、「保守」のはずである。ところが、憲法改正を主張してきたのは、言うまでもなく、保守政党とされてきた自由民主党である。これに対して、護憲を唱えるのは社会民主党や共産党といった、「革新」に分類されてきた政治勢力なのである。

なぜ、そのような捩(ねじ)れが生じているのか。理由は簡単で、日本国憲法の内容が、「革新」の理想を表現するものだからである。それゆえ、日本国憲法は、保守勢力には受け入れがたく、革新勢力は逆に守りたがる。本来、「国体」と同義であり、「保守」的なものであるべき憲法が、戦後日本の場合は、「革新」的なものになっているのである。」

「新自由主義などという、保守主義とはおよそ相容れないイデオロギーを掲げた政治家や知識人が、自らを「保守」と称し、世間から「保守」と呼ばれる。このような事態が一世代にもわたって続いてきたというだけでも、現代人の精神がどれだけ異常をきたしているかが分かる。まして、2008年の世界金融危機により、新自由主義の破綻が白日の下にさらされ、あのアメリカの経済学者たちですら、新自由主義の誤りを認めざるをえなくなっているというのに、日本の「保守」を自称する政治家や知識人の多くは、この期に及んでも、まだ新自由主義から離れようとしないのだから、病膏肓に入る(やまいこうこうにいる)の感が深い。」

「街場の憂国会議」は、上記の意味で会えば、おそらく主義も立場も異なる9人の論者による安倍政権批判の書である。9人とは、内田樹のほか、小田島隆、相田和弘、高橋源一郎、中島岳志、中野晃一、平川克美、孫崎亨、鷲田清一である。鷲田氏の論考から。

「右肩上がりの時代が「安楽」の工夫の時代だとしたら、これから長らく続くであろう右肩下がりの時代は「我慢」の工夫の時代であるからだ。そこでは、だれかに、あるいは特定の世代や社会層に、どこか特定の地域に、はたまた何か特定の業種にダメージが集中しないように、負担とリスクを分散させること、それらを均等に担うことが求められる。そのとき、問題の解決を職業政治家にそっくり預け、みずからはその政治サービスの顧客と化してしまえば、元の木阿弥になる。」

「この国は世界でも屈指の速さで長寿化をなしとげたし、停電も、電車の遅れ、郵便の遅配もめったになく、深夜に一人歩きができるような安全な街というふうに、都市生活の高いクオリティを実現した。が、それと並行して進行したのが、市民たちの相互支援のネットワークが張られる場たるコミュニティ、たとえば町内、氏子・檀家、組合、会社などによる福祉・厚生活動の痩せ細りである。人びとは、提供されるサービス・システムにぶら下がるばかりで、じぶんたちで力を合わせてそれを担う力量を急速に失っていった。いいかえると、これらのサービス・システムが劣化したり機能停止した時に、対案も出せなば課題そのものを引き取ることもできず、クレームをつけるだけの、そういう受動的で無力な存在に、いつしかなってしまっていた。」

知識人の間で、「保守」「革新」の垣根がくずれ、本当に大切なものを守り、育てるために必要なコラボが始まりつつあります。「危機」がそこまで深刻化していることによります。私は、そのことに、希望を見出したいと思っています。

さて、花です。

リョウブ、カーネーション、ちょっとわかりにくいですがオレンジのアルストロメリア

芍薬、ビバーナム、アリウム

トルコキキョウ、スマイラックス、

利休草、トルコキキョウ

事務所で寝ころぶラッキー