2011.12.07

再び脱原発について

原子力協定が衆議院を通過した。原発を輸出するためにはこの協定の発効が必要なのだそうだ。

原発輸出は政治、経済の退廃を象徴する政策だ。「政治とは妥協だ」というのは、以前に橋爪大三郎氏(東工大大学院教授)から直接聞いた言葉で、私は共感している。政治が「理念」となると、究極はファシズムか共産主義に行きつくと思うからだ。しかし、倫理を失った政治は退廃と言わざるを得ない。原発輸出は退廃そのものだ。

話は単純だ。「フクシマ」以前であれば、それを倫理の問題ということはできないだろう。国民の多くが、少なくとも必要悪としてその存在を認めてきたのだから。しかし、今や、国民の大半が、そして政府、国会議員も国内での新規原発建設は困難と認めている。要は、「自分が嫌なこと、困ることを他人に強いてはいけない」という簡単なことだ。

かつて(1980年前後)、合成洗剤の害悪が大きな社会問題になった。特に当時ほとんどの合成洗剤に含まれていたリンが湖沼等の富栄養化を招き、琵琶湖などでアオコや赤潮が大量発生した。1980年には滋賀県で琵琶湖富栄養化防止条例が発効し、リンを含む洗剤の販売が禁止される事態になった。これに対して、それまでリンの毒性を否定し、リンがないと洗浄力を保つことができないと主張してきた合成洗剤メーカーは、手のひらを返すように、無リン洗剤を開発し、以後、国内ではリンを含む洗剤はほぼ姿を消した。

しかし、メーカーは有リン洗剤を東南アジアなどで販売し続けたのだった。国内で安全上の理由で販売できないものを、規制の緩い他国で売るという資本主義経済の論理に、私は強い嫌悪を感じた。倫理なき経済行為、それを許容するどころか推進する政治は、退廃以外の何物でもない。

原発輸出は、国内に原発を造るよりも許せない行為だと、私は思う。