2012.07.13

大津の中学生自殺事件に思う

 またまた痛ましい事件が起きた。いじめが原因と思われる小中学生の自殺事件は後を絶たない。そして、今回のように、学校、教育委員会の対応が問題とされるケースが少なくない。報道された内容を取捨選択して、確認済みの事実と考えられるものだけを判断材料としても、学校、教育委員会の対応は極めて不適切だと考えざるを得ない。ただ、情報が錯綜する中で、今の段階で軽々な評論をするのは避けたいと思う。

 今回、被害者の遺族が責任の所在をめぐって裁判に訴えているという。そのことで、私がずっと考えてきたことがあるので、そのことを書いてみようと思う。

 今回の問題とは少し異なるが、教師による生徒への暴力事件が起きるたびに、なぜ司法に訴えないのかと不思議に思ってきた。「体罰」という言葉によって事件の本質が見えなくなるが、教師の意図が「教育的」であろうがなかろうが、起きた事実はれっきとした「傷害事件」であり「暴行事件」だ。ところが、学校が教育の場であるということから、「体罰」か「暴行」かが問われる。そして、警察が入るケースは稀であり、教師に非があるという結論になったとしても、厳重注意とか担任を外すとか、減給とか、停職とか、要は「社内処分」で終息することが多い。これはおかしい。

 例えば、会社で上司が新入社員を「教育的」に殴ったら社内処分で済むか。そんなことはあり得ない。立派な暴行罪が成立する。殴られた社員が怪我をすれば傷害罪だ。ただ、日本においては、会社共同体でのなあなあ主義に守られて、事を荒立てたくないという心理がお互いに働くことは少なくない。しかし、事の本質は、見知らぬ人に出会いがしらに殴られようと、会社で上司に殴られようと、学校で教師に殴られようと、本質は同じである。学校で起きる事件に司法が入りにくいのは、日本では教育の場が「聖域」であるという心理を持つ人が多いからだ。明治以来、学校は教師の絶対的な権力によって、子どもを訓導する場という「教育」が徹底して行われ、皇国教育の強力なバックボーンになった。この構造は、新憲法に基づく戦後教育によっても転換されることがなく、現在に至っているのだ。だから暴力事件が起きても、被害者(家族)は余程のことでなければ警察に告発しようとしない。「学校で起きたことを警察に訴えるなんて!」という陰口を恐れることも判断材料になるだろう。実際、告発すれば間違いなくそうした陰湿な非難に晒されるだろう。

 しかし、学校は決して「聖域」ではない。場所がどこであろうと「悪いことは悪い」のだ。そうした認識を社会的な常識のレベルにまで引き上げないと、教師による「体罰」は決してなくならないだろう。

 今回の大津の事件での学校、教育委員会の信じがたい対応の背景にも、学校が「聖域」であり、自らが「聖職者」であるという、度しがたい心理が働いていると思えてならない。