2012.11.18

藤本敏夫没後10年を語る会と花

昨日、日比谷の松本楼で「藤本敏夫没後10年を語る会」があった。第一部は中澤新一氏の記念講演、テーマは「赤からみどりへ」、藤本さんは、いわゆる新左翼の活動家で、実際彼は赤いヘルメットをかぶって活動していた。1968年、デモ隊のリーダーとして六本木の防衛庁に突入して逮捕された。その彼が、1970年時点では、考え方が大きく変わり、その後の日本にとって重要な課題は、農業、自然の保全、共同体の復活だと考えるようになった。これが「赤からみどりへ」という意味だ。70年安保と言われる投石、ゲバ棒、催涙弾などで騒然とする世情の中で、その中心にいた人が「みどり」を主張したのは、彼が最初だったと思う。今から思えば、その先見性は驚きだ。
私が藤本さんに出会ったのは、まさに1970年で、たまたま日本キューバ文化交流研究所というところに出入りするようになり、彼がその事務局長だったのが縁だ。その年、彼は「環境整備行動委員会」という組織づくりを目指し、私は何度か勉強会に出席した。「環境整備」という言葉に、農、自然、共同体などの思いを込めたのだったが、当時、私たちはその意義がさっぱりわからなかった。ともに当時の勉強会に参加した友人と昨日再開したが、「さっぱりわからなかったよなあ」で一致した。わたしたちの頭は当時まだ「まっかっか」で、急に「みどり」を主張し始めた藤本さんの真意が理解できなかったのだ。この組織は藤本さんの収監で短命に終わった。

しかし、私は翌年に生活クラブ生協に就職し、「みどり」の活動を始めている。確かな記憶ではないのだが、彼と行なった勉強会の影響があったのかもしれない。その後、彼は1976年に大地を守る会を結成、鴨川自然王国の設立など、一貫して「みどり」の活動に傾注していった。2002年7月31日に帰らぬ人になったが、その2週間前に、入院中の病院に呼ばれた。千葉県における農の再生のための壮大な構想を説明され、協力を頼まれた。遺言のような大きな宿題をもらったのだ。あれから10年、宿題に充分応えていると胸を張ることはできないが、ユニバーサル農業の取り組みがぼくなりの答えだと思っている。登紀子さんにも協力してもらって、この活動を大きく広げていきたい。

さて、上記の会が5時開始だったので、それに間にあうように八街に向かう。いつものジョイフル本田でクリスマス飾り用のモミの木などを買って、作業を始めたのが12時過ぎだったかな。

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なかなか立派なモミの木でしょ。

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エレベーター横もクリスマスっぽく。右の花材は、水仙、綿の実、先週使ったクジャクヒバ、石化柳、見えないがキングプレテア。下の土台は、サンキライのリース

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クリスマス劇場?の水仙