2011.04.06

「障がい者」とはマイノリティの問題

 4月1日から、2週間に渡る新入職員研修が行われている。私は2コマ、1日と4日にそれぞれ1時間半の講師を務めた。

 初日には、この2年間使い続けてきた資料で「福祉事業と権利擁護」について話した。資料とは、国連の障害者権利条約、日本の障害者基本法、そして千葉県の障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例の抜粋で、その対比をすることで障がいとは、障がい者とは、差別とは何かを考えるものだ。

 この問題を考える際、私は二つの観点から話すことにしている。一つはICF(WHOが2001年に定めた「障がい」の定義)の「環境要因」だ。私自身、障がいの概念のコペルニクス的転換に、まさに目からうろこ、目の前の厚い雲が一瞬で掃われるような感動を味わったから。

 障害とは当人の身体状態を言うのではなく、その人の身体状態が普通の暮らしをする(ノーマライゼーション)上で障害になる社会環境のことを言う。リハビリで身体状態が改善する余地があるなら、もちろんそれが優先事項になる。しかし、そうでないなら、その人の普通の暮らしを阻害する社会環境の障害をなくすることが、「障害の克服」ということに他ならない。

 もう一つは、障がいはマイノリティの問題だということだ。例えば、この世に目の見えない人のほうが見える人より多かったら、耳の聞こえない人が聞こえる人より多かったら、2足歩行ができない人がほとんどだったら、世の中のあり方はまったく変わってしまうはずだ。例えば、会議に手話通訳がつかないということはあり得なくなるだろうことは容易に想像できるだろう。しかし、実は、聞こえない人が多数を占める、つまり支配する社会では、手話通訳はつかない可能性が高いということだ。耳が聞こえない人どうしは、彼らの言語である手話によって、通訳なく自由に会話ができる。通訳をつけるとすれば、それは少数の耳が聞こえる人とのコミュニケーションのためなのだ。

 今、多くの会議やテレビやなどで手話がつかないのは、少数の聞こえない人のためにそんなコストを払いたくないという、聞こえる人の意思に因る。立場が逆転すれば、聞こえる人が社会から阻害されていくことがわかるだろう。マイノリティの問題だとは、そういうことだ。

 福祉の事業に携わる人は、これらのことを体に染みつけて、権利擁護ということを考えなくてはならない。